キーワード:食料問題の解決/食料増産/植物工場
「すべてのモビリティーへ“上質な時空間”を提供する」ことをめざし、シートやドアトリムなどの内外装材やフィルターなどを開発、世界的な自動車メーカーに提供しているトヨタ紡織株式会社。自動車業界で大きな存在感を発揮している同社が開発した新技術に今、多くの動植物研究者や農畜産業・食品業界の人々の視線が集まっています。その名は「起潮力同調技術」。潮の満ち引きのリズムが生み出す微細な重力「起潮力」に合わせて光を適切に照射していくことで、生物の育成に大きな力を与えることが期待されています。この革新的な技術開発を進めるバイオ研究室の服部洋子さんに開発の経緯や現在の到達点、将来の事業化構想などを語っていただきました。
Person
トヨタ紡織株式会社 新領域開拓部 バイオ研究室 1グループ長
服部 洋子
「食べることが大好き」だったことから、大学は農学部で「稲の研究」に携わる。博士号の学位取得後も博士研究員として研究を続けていたが、教授から声を掛けられ、研究プロジェクトのマネージャー業務を担当。チームメンバーをまとめて成果を生み出すことや社外発表に関するノウハウを学ぶ。その後、改めて「研究者として生み出した価値を世の中に役立てたい」と考えるようになった頃、新規事業の創出を成長戦略の一つに掲げるトヨタ紡織を知人から紹介され、2018年10月に入社。新領域開拓部に所属し「起潮力」をテーマとした研究開発に携わる。
「夢がもてる技術」と出会う
――「起潮力」は初めて聞く言葉でした。どのようなきっかけで研究に携わることになったのでしょうか。
実のところ私も大学時代には起潮力のことは詳しく知りませんでした…。プロジェクトマネージャーをしていた時に縁あってトヨタ紡織の方から起潮力について聞く機会があり、月がもたらす潮の満ち引きのリズムと光の照射や餌やりのタイミングで植物や動物が早く大きく育つ技術と聞いて驚いたのですが、研究者としては自分でデータを確認するまでは信じることができませんでした(笑)。
ただ、これまで地道に開発を続けてきた成果がようやく技術として確立しつつあると聞いて、この会社は本気で「起潮力」を新規事業として社会に役立てようとしていると感じました。また、中長期的には世界の食料問題の解決に貢献できる夢のある技術でもあることから、私も機会があったら携わってみたいと考えるようになりました。
――その後、トヨタ紡織の方から研究メンバーにならないかと誘われたのですね。
はい。知人がトヨタ紡織と大学との共同研究に携わっていた縁もあり「興味があるなら」とお誘いを受けました。入社したのは2018年の10月です。
それまでは大学の農学部で、いわゆるポスドクという立場で「稲」の研究を続けていたのですが、途中からは研究を離れ、研究プロジェクトのマネージャー業務に携わっていました。メンバーの研究を把握しながら推進し、成果をとりまとめて社会に発信していく重要な役割で、コミュニケーションや広報スキルに関して多くを学ぶことができました。ところが、研究者と日々一緒に過ごすなかで、徐々に自分のなかにあった「もう1度、現場で研究をしたい!」という気持ちが大きくなり、「モノづくりをしたい!」と思うようになりました。もともと、モノづくりをしてみたいという思いがずっと心にあり、研究者として研究成果をまとめて論文にするのもモノづくりですし、マネージャーとして“良いプロジェクト”をつくり、全体の成果を出すことも一つのモノづくりだと思ってやってきていましたが…。
後で聞いた話ですが、ちょうどその頃、トヨタ紡織の新領域開拓部では起潮力の研究とマネージメント業務の双方に興味・経験をもった人材を求めていたことから、声を掛けていただけたそうです。
自動車内装部品の環境対応から始まった「起潮力」という新発見
――改めて、どのようなメカニズムで生物が育つのかを教えてください。
干潮や満潮など、潮の満ち引きが月の引力によるものであることは広く知られています。もう少し詳しく言えば、地球の遠心力、月と太陽を含めた天体間の引力によって重力加速度が変化します。それにより「起潮力」という力が生まれ、潮の干満のリズムをつくり出します。そして、私たちの研究によって、満潮に向かう時、月に引っ張られるように植物や動物が育つということがわかってきました。
――月のリズムが生物の成長に関わるというのは、大発見に思えます。どのような経緯で起潮力が動植物にもたらす力を解き明かしていったのでしょうか。
当社は1990年代から自動車の内装部品の軽量化を進めるとともに、原料を石油系素材から植物由来素材へ置き換えていくことで化石燃料・鉱物資源使用量の削減やライフサイクルを通じたCO2排出量の削減などに挑戦してきました。その一環として、一年草植物であるケナフの繊維を内装パネルの樹脂に練り込む技術を2000年に確立し、以来、多くの内装部品への活用を進めています。
参考)一年草植物「ケナフ」とケナフを用いた自動車内装部品(トヨタ紡織株式会社)
https://www.toyota-boshoku.com/jp/sustainability/environment/challenge/natural
そして、このケナフ繊維をより多く収穫していくためにはどうしたらよいか――。そんな課題意識が、2008年に設立された基礎研究所(現 新領域開拓部)での研究につながりました。研究所は当初から「自動車以外の研究も積極的に推進する」ことを方針の一つに掲げており、少々の寄り道は許される雰囲気があったことから、当時の先輩研究者がケナフの育成状況を調査しました。
すると、約2週間おきに繊維の層が増えることがわかりました。自然界のなかで2週間の周期といえば…ということで、潮の満ち引きに関係があるのではと考えました。また、3時間おきにケナフの成長を測定すると、伸びるタイミングと伸びないタイミングがあることがわかりました。この結果と起潮力の変化を重ねてみたところ、月に引っ張られる時間帯が夜と重なると、より成長が良くなるという結果から「起潮力」に行き着いたそうです。ちなみに、先輩から聞いたところ、週末に夜釣りに行っていた時、潮の満ち引きを眺めながら「月の力で成長する?」とひらめいたそうです。
――月のリズムといえば、月暦を用いた伝統農業が今も受け継がれています。素朴な疑問ですが、その原理がこれまで解明されてこなかったのはどうしてなのでしょう。
おっしゃる通り、「種まきは満月に」「収穫は新月に」など、おいしい野菜をつくってきたいにしえの達人による言い伝えや経験則は現在も生きています。
ただ、月の見え方や潮の満ち引きは目で見ることができますが、起潮力はごく微小な重力の変化に過ぎません。また満月の光でも一般的な照度計では測れず、生物リズムとの相関研究が早くから研究されてきた太陽光とは違って、従来の分析技術や理論計算では月と生物との因果関係はなかなか解明できませんでした。
少し複雑になりますが、起潮力を生物の育成に活用するためには、満潮と干潮のリズムに合わせて栽培室内の温度、光、養液、二酸化炭素などの環境因子を最適調整することが必要です。そのなかで近年、科学技術の発展によって新しい分析技術や解析技術が登場してきたことから、こうした難度の高い実験にようやく今、チャレンジできるようになったということだと思います。
――起潮力は今もっとも新しい最先端の研究分野なのですね。
最先端と言っていいかどうかはわかりませんが、実際、起潮力と生物の関係を示した論文は私たちが確認する限りほとんどなく、数本だと思います。また、大学の先生と話をしていても「聞いたことはあるけど本当かな?」とおっしゃる方がほとんどなので、データを示しながら説明して、おもしろさを共有していただいて、「じゃあやってみよう」という感じで仲間を増やしています(笑)。
植物工場への展開を見据えて起潮力の実用化に挑む
――改めて「起潮力」の研究における服部さんの役割や成果について教えてください。
私が所属するバイオ研究室の1グループは、起潮力と動植物を含めた生命活動について基礎研究から応用研究まで幅広く取り組んでいるチームです。私自身は、これまでの研究成果を再現性のある技術へと昇華させるとともに、その技術をさまざまな産業に応用していくことをめざしています。
例えば、私が現在、携わっているテーマに、植物工場での「起潮力同調栽培」という技術の開発があります。さきほど起潮力は夜に効果的に作用すると言いましたが、屋外で育つケナフの光をコントロールするのは難しいため、光の照射時間を自在に変化させることができる閉鎖型の植物工場をターゲットにしました。まずは実験室でレタスを育成し、さまざまなデータをとって、そこから得た知見をもとに実際の植物工場で実証実験をしている、という段階です。実験はレタスなどを栽培している国内の大手植物工場に依頼し、光のオンオフだけでなく、特殊なLEDで色を変えながら育成状況がどう変化していくかなどを調べています。
――手応え、成果はどうでしょうか。
光の照射を工夫することで、従来の植物工場よりも収穫量が約2割増えるという結果が出ています。展示会などに出品すると反響も大きく、大きな手応えを感じる瞬間です。例えば、月のリズムを活用して野菜を育てるという原理の意外性に驚かれる方もいれば、「昔から言われていることはやっぱり本当だったんだ」と嬉しそうに語ってくれる方もいらっしゃいます。また、異常気象で農作物に大きな影響を受けた方や、寒冷地や乾燥地など植物栽培に適さない地域の方からは「今すぐほしい」という切実な声も聞くことができました。
――食料問題の解決に向けたアプローチは世界的な関心事項になっています。ところで動物についてはどんな研究をしているのですか。
はい。担当しているのは別の研究員ですが、すっぽんの養殖に起潮力が役立つ可能性があるということが見えてきています。植物の場合は月のリズムと光のオンオフがポイントになりますが、すっぽんは月のリズムと餌やりのタイミングがポイントで、良い条件を重ね合わせると初期成長が早く体重が増加するのです。
レタスもすっぽんも食料問題の解決につながる可能性がありますが、起潮力で成長が促進される理由が、栄養分の吸収が良くなるから、ストレスが軽減されるから、といった事象と関係づけられれば、人の医療や健康領域に応用できるかもしれません。
――2021年4月からはグループ長としても活躍されています。チームをどのようにまとめ、どのようなゴールをめざしているのかを聞かせてください。
起潮力に関する基礎研究から実証実験まで、6名のメンバーが各自テーマをもっています。グループ長としては、まずはメンバー同士の有機的なコミュニケーションを重視して、知見やノウハウ・議論を積み重ねながら成果を生み出す“良いプロジェクト”となるよう日々努めています。また、私の出身大学でもある名古屋大学などと「起潮力が生物に及ぼす影響」について共同研究を行っていることから、名大や他の研究機関とも議論しながら成果を創出していければと考えています。
――大学のプロジェクトマネージャー時代の知識やスキルが活かせますね。
そうありたいと思っています。その上で、大きな目標としては2025年ぐらいまでに起潮力と生物に関する技術を確立し、論文や展示会などさまざまな方法で世の中にそのポテンシャルを知っていただきたいですね。さらに2030年頃には、興味をもってくれた研究機関や企業とコラボレーションしながら世の中の豊かさやサステナビリティに役立つ技術として認知されるようになっていたいです。
――社内からの期待も感じていますか。
はい。社長がトップセールスのようなかたちで「食料問題の解決に資する技術」として外部にアピールしてくれたり、昨年の「トヨタ紡織レポート」に記事を掲載してもらえたりと、以前にも増して期待値が上がっていることを実感しています。
ただ、先輩の研究員からは「当初は社内の理解を得るのに苦労した」とも聞きました。なぜなら、バイオや生物の研究は工業製品のように1+1が必ずしも2にならないことがあり、ゼロだったり10だったりという結果が出てから研究を始めるような文化があります。そうした点がこの研究の難しさであり面白さでもあるのですが、同時に、周囲からいろいろ言われることがあっても10年以上にわたって新規事業創出に向けた研究開発ができる環境があるというのはとても幸せなことだと思っています。
豊かさの選択肢を広げる技術を
――最後に、サステナビリティに関して、服部さんの想いを聞かせてください。
「サステナビリティ」は今やあらゆる分野で最重要なキーワードになっています。そのなかで私が強く願っているのは、それを実現するためだからと、何かを我慢して生活の質を落としたり、伝統文化を否定したりするものであってほしくない、ということです。食の世界でも水不足やたんぱく質不足が叫ばれていますが、課題解決に向けたアプローチでは、地域の食文化を尊重し、豊かさの選択肢を広げるものでありたいと心掛けています。
そうした観点から私が携わっている起潮力を見た時、収穫量が20%高まる技術であれば、製造時のエネルギーを20%減らせる技術であり、商品価値を20%高める技術ということもできます。こうした価値をどの分野で、どう活かしていくか。その優先順位はパートナーとなる事業者の方の判断となりますが、遠くない未来、一つの確立した新技術として社会にその価値を拡げていきたいと思っています。
――基礎研究に携わる技術者としての矜持ととらえました。
基礎研究という点では、もう一つ、私には夢があります。アイディアレベルではありますが、重力と生物の成長の関係性を調べていくことで、将来、起潮力を「月面農業」や「宇宙農業」に活かせないかと考えています。宇宙物理学など多分野にわたる話になるので私だけでは到底力が及びませんが、いろいろな研究者とのネットワークが広がりつつあるなかで、新規事業創出に10年単位で挑むこの会社なら何かできるんじゃないかなと期待しています。
「すべてのモビリティーへ“上質な時空間”を提供する」ことをめざし、「シート」「内外装部品」「ユニット部品」などを製造・販売。その対象は、自動車業界のみならず航空機、鉄道業界などにも拡がる。現在は、そこからシームレスでつながる住宅、スマートシティ、コネクティッドシティなど地球上のすべての生活・コミュニティ空間を視野に入れている。また、「さらにその先」を見据え、現在のコア事業以外の領域に第4、第5の柱を打ち立てていくための研究・製品開発に注力している。